from ぎんてつ

新年のごあいさつ

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あけましておめでとうございます。

弊社がこうして無事新しい年を迎えられるのも、お客様、お取引先様、地域の皆様のおかげです。今年はさらに皆様にご恩返しができるよう、精いっぱい業務に励みたいと思っています。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

さて、昨年は私にとって有意義な年となりました。父が他界するという悲しいできごともありましたが、父の人生を振り返る中で、私自身、自分はこの世で何をなすべきかをじっくり考えることができました。

父は私が1歳の誕生日を迎える前、東村山市の青葉町にやってきました。当時の青葉町は雑木林に囲まれた新開地。同じ頃、青葉町に来た人の中には、集団就職で上京し、念願の独立を果たした人もいて、皆、お金はなくても一世一代の夢と希望を持っていました。
そんな人たちの集まりですから、助け合うのが当たり前。私が風邪をひいたとき、ネギ湯をつくるのに隣の家の庭に生えているネギをもらいに行くような、フーテンの寅さんを地で行く人情味あふれる温かい町でした。
父はそんな青葉町で菓子屋を開き、その後酒類販売の免許を取得して、酒屋になりました。

私は一人息子です。そう言うとさぞ可愛がられたと思われるのですが、うちの父は違いました。獅子が自分の子を千尋(せんじん)の谷に落とすがごとく、私を厳しく育てました。泳げなかった私をプールの深みに投げ込んで、必死で犬かきを覚えた…なんてこともありました。

父の日常は朝早く起きて仕入れに行くことから始まります。そして朝8時に店を開け、閉めるのは夜8時。私も学校から帰ってきたら店を手伝うのが当たり前で、夕食にありつけるのは店を閉めてから。家に帰ったらおやつが待っていて、夜6時か7時には夕飯を食べられる友人たちが羨ましくてしかたがありませんでした。
閉店間際には、店の周りの掃き掃除をするのが私の日課。冬は寒風吹きすさぶ中、青っぱなを垂らしながら、早く店を閉めてもらいたい一心で掃いていたものです。手はあかぎれでガサガサ。とても痛かったのを覚えています。

でも、今ではそういう環境に置いてくれたことを感謝しています。私を厳しく育てたのは、父自身が幾多の苦難に直面し、不撓不屈の精神で自らの人生を切り開いてきたからだったと思います。 私にも己の人生を己で切り開く力を身につけさせたかったのでしょう。

父は昭和4年、播州赤穂、現在の兵庫県相生(あいおい)市に生まれました。母親は父が1歳の誕生日を迎えてすぐに病死。乳飲み子だった父は、母親の亡骸のそばで泣いていたそうです。すぐに里子に出され、どうにか3歳を迎えると、今度は父親が他界。父には兄と姉がいましたが、昭和4年の世界大恐慌の後とあって、幼い兄弟3人は引き取り手もなく、ちりぢりになってしまいました。

父は最初漁師に引き取られました。ところがその漁師というのが謝礼目当ての飲んだくれ。謝礼がないとわかるとたちまち育児放棄し、やせ細った赤子を見かねた郵便配達の人が家に連れて帰ってくれました。それが山本さんという農家の老夫婦の息子だったのです。

しかし、山本家も貧しく、父は家で現金というものを見たことがなかったそうです。もちろん食べ物も満足にはありません。小学校のとき、昼飯時にはよく学校から家に走って帰ってきていた、とも話していました。昼飯を食べる友人を見るのがつらかったからです。家に帰ってきたからといって食べ物があるわけではなく、父は毎日ひたすら空腹に耐えていたそうです。

そんな赤貧の中にありながら、山本夫妻は自分たちよりも貧しい人がいれば、自分たちのわずかな食べ物を分け与えるような、慈悲深い人だったそうです。その夫妻のもとで父は勉学に励み、「村一番の秀才」と言われるほどになりました。

しかし、爪に火を灯すような生活をしている山本家では「上の学校に進みたい」などとはとうてい言えません。そんなとき、大日本帝国陸軍の募集広告を目にし、「自分もお国のためにお役に立ちたい」と少年飛行兵を志願しました。父12歳のときのことです。

運動神経がよかった父は、戦闘機の乗組員に抜擢されたものの、幸いにして出撃前に終戦。父は18期生でしたが、17期生は鹿児島県・知覧から最年少の特攻隊員として出撃しましたから、終戦がわずかでも延びていれば父も出撃し、私もこの世に生まれ出ることはなかったわけです。

戦後、地元で代用教員などを務めながら生計を立てていた父は、「東京で一旗揚げたい」と一念発起。行李ひとつで上京し、東京裁判の弁護団副団長をつとめた清瀬一郎氏を訪ねます。つてがあったわけでもなんでもなく、ただ清瀬氏が播州赤穂の出身というだけで会いに行ったのです。
そのとき、清瀬氏から紹介されたのが、播磨造船所(現在の㈱IHI/石川島播磨重工業)社長から通産大臣になった横尾龍(よこお・しげみ)氏でした。相生には播磨造船所の工場があり、そんな縁もあって清瀬氏は横尾氏と知己を得ていたのでしょう。無一文だった父は、時の通産大臣の書生になり、東京湯島天神のすぐそばにあった横尾邸に住み込み、政治家を志すようになりました。

ところが、幸か不幸か、門前仲町の酒屋に養子に入った父の兄が体調を崩し、その酒屋を手伝ったことから、商売の道に入ります。といっても、カネもコネもない身ですから、新宿南口のバラック同然の場所で、わずかなスペースに品物を並べただけの菓子屋を出すのが精いっぱいでした。

やがて都市開発のためにそこを立ち退かざるを得なくなると、現在の西東京市に移り、改めて菓子屋を開店。それから数年後に東村山市に移ってきたというわけです。

手前味噌ではありますが、父は無私の人でした。そして、無から有を生み出した人でした。

自分がどんなに苦しい状況にあってもいつも他人様のことに心を配り、東村山市に移ってからは地元商店会を立ち上げ、祭りや老人ホームの慰問を始めたり、民生委員を務めたりして、地域の皆様のために奔走していました。

泣きたいほどつらいことも山ほどあったはずなのに、誰を恨むことなく、毎日嬉々として立ち働いていた父の姿を思うと、自分も多くの方に喜んでいただける働きをしたいとつくづく思います。 父はようやくあの世で家族全員一緒になり、今頃きっと楽しく過ごしていることでしょう。これからは私が父の思いを継いで、「銀河鉄道があってよかった」と言っていただける仕事をしたいと、年頭にあたり、心を新たにしているところです。

 

弊社もおかげさまで昨年の決算は増収増益。

会社設立17年にしてようやくトンネルを抜け出たような気がします。何のとりえがなくても、コツコツまじめにやっていれば、お天道様は3度の飯くらいは食べさせてくれるのかもしれません。

感謝の心を忘れず、気をひきしめて精進したいと思います。

今年は皆様に喜んでいただける事業を新たに立ち上げる予定です。詳細は随時発表させていただきますので、どうぞ楽しみにお待ちください。(今年はまた新車も入る予定です!)

今年が皆様にとってよき年となりますよう、お祈り申し上げております。

平成28年元旦

 

銀河鉄道株式会社  代表取締役 山本宏昭

 

 

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